エリ・エリ・レマ・サバクタニ

MY VOICE IS NOWHERE/幻視者

定理:「学ばなければならない」という状況

 「将来使わないのになぜ三角関数なんか学ばなければならないのだ」というような文句は、よく口に出され、読者であるあなたも考えたことがあるかもしれない。自分は人に何かを教える仕事をしているので、「三角関数」が「元素記号」であったり「1853年(世界史における年号)」であるにしろ、同じような論理を幾度となく耳にしたことがある。

 しかし、このことばは考えてみれば見るほどおかしなことばだと思う。人によって様々な答えがありそうな問いなのだが、私はもしこのように問いかけられたら「どうしてあなたは学校に来ているの?」と反対に問いかけなおすだろうと思う。

 そもそも「三角関数」や「元素記号」という知識を学ぶことは、学校という場において何よりも必ず行うこととして設定されているものの一つである。そしてその場所に来ている者は本来、その学ぶということを第一の目的として来ているはずなのである。学校に通いながら「なぜこんなことをしなければならないのか」と文句を言っている学生には、自動車教習所に来ておいてなぜ車の運転を学ばなければならないのかと言っているようなコッケイさがある。であるのに、小学校中学校という義務教育というのはもちろん、高等学校や大学まで行くのが当たり前だという現代日本においては、多くの児童や生徒にとって、学校というのは自分の意思に関係なく向かわされ、居続けなければならないという場所になっている。そこから逃げ出したいという思いが、不登校やいじめなどを生み出すのだろうとも思う。

 それが純粋な知的な好奇心や探求心によるものでも、いい進学先や主食先に入って良いオモイをしようという、、自身のキャリアを形作るというものにせよ、どちらもあることを学ぶという時、自分に必要なものとしてすでにその知識とそれを学ぶということを欲し、それの通りにそれを学んでいるのである。「なぜ学ぶのか」という問いには、些か禅問答のようではあるが、「学ぶから学ぶのであり、そして今あなたは学ぼうとし学んでいるのだ」というふうに答えるように他はない。自分はそこから「学ばなければならない」という状況が生まれてくるのではないかと考えているのである。

 生徒には、学校という施設がある。その施設は大体が多くの生きるために必要となる知識を学ぶのは勿論、何よりも「どうやって学ぶのか」「どのようにして学ぶという行為をするのか」という学び方、もっと広く言い換えるならば物事へ関心を持ち、それに向き合い続けかを学ぶという役割が強く存在し、そしてそれが重要だと私は考える。ではそれを行なっていないもの、例えば、「大人」には?大人は学んだことは抜け落ちたとしても、どうやって学ぶか、どのように物事に向き合うかが既に身についているとされている。それが定まり多少のことでは揺らぐことがなくなった者を、人々は「成熟した」「大人だ」と評価するのかもしれない。しかし「大人」になれば、学ばなくていいということはなく、むしろ外面的に「大人」であるとされるような年齢に達したような者でも、積極的に「学ばなければならない」と思い、学んでいるような素振りを見せている。ここにもまた、学校という施設に追い込まれる学生とは異なる「学ばなければならない」という状況を見ることができる。

 先ほど私は「学ぶから学ぶ」ということばを使った。このことばは、学ぶという行為にはゴール地点や完遂という状態がなく、再現あく学び続けるということのみがあるというモデルを示している。学びたいと考え、意思を発したとき、その者はそれを学び始め、そこから中断を挟むことなく学びつづけている(その対象に関心を持ち、働きかけている)のである。そしておそらくその意思を発する遥か前、既にそれを学んでいたとも言えるのだ。対して、「学ばなければならない」となるときは前述したモデルとは似て非なる状況へと入り込み、そこで行われることも学ぶ、学んでいると同じ工程を持っていながらも違うような結果をもたらしてしまう(同じプロセスを持ちながらも、まるで違う結果をもたらしてしまう発酵と腐敗の関係と似たものだろう)。少し飛躍した言い方をすると、実は「学ばなければならない」の中には「学ばない」という決定が密かな基礎として入っているのである。「学ばなければならない」と思った時、その現状には「学ぶ」 にあるような働きかけがない。ここで先ほど述べた、「学ぶという意思を発した時にその者は既にそれを学んでいた」という逆説が重要になる。学んでいる対象に対する働きかけ(興味・関心とも言い換えられるだろうがより行動に直結しているという点が重要である)が学ぶという行為の以前にありそれもまた、学びに含まれている。、「学ばなければならない」という意思は、そのような働きかけがなく、そして未だ生まれていない位置から無理やりにそれを学ぶという位相へと動かないままに辿り着こうとしている。しかし実際はたどり着けておらず、学びとは全く異なるものとしてあるために、円環的かつ恒久的な学びの実行は未遂に終わり、かつ永遠に「学ぶ」の中へと入り込むこともできないのである(これは学ぶというだけでなくすべての行為にも当てはまるのかもしれない)。

 近代においては一種の「主義」、そして新自由主義化の進んだ現代におけるビジネスの目的のための自己啓発として変節した「教養」ということばに常につき纏っているムナシサはここにある。どれだけ書物やインターネットにおける記事やコンテンツを、人工知能にまとめるなどして整理し、摂取したとしても、それを「学んでいる」と呼ぶのが憚れるような気持ちになるのは、それが本当は「学んだ」という状況に入っておらず、そことは別の状況や場所に入っており、そして本当はそこから動いてすらいないからである。

 学ぶということは、赤ん坊が暮らす家の中で歩き方や、水の飲み方や排泄の仕方や作法を覚えるように、それくらい生きることに直結しているはずだ。学ばなければならない(学ばない)から学びたい(既に学んでおり、それによりこれかも学び続ける)への変更を行わなければならない。

『キングオブコント2024』感想文

はじめに

キングオブコント、今回も最高の大会でした。少しずつお笑いから気持ちが離れていっている自分ですけど、毎回キングオブコントを見るたびに、やっぱお笑いおもれーと思い直すってことが何年も続いています。

毎回、準決勝のレポートを見て、ウケたらしい組が決勝に進出できなかったことを実際に見てもいないのに残念がってしまうけれど、実際の決勝を見ると、この選出で間違いがない納得させられるほどに、現時点でお笑いというものが表現できる限界の先端にいるようなネタが並べられ、その不満がねじ伏せられるので、そういったレポは当てにならないものだなと思ってしまう。特に、決勝でも爆発的にウケていたのに落ちたという組がやっていたコントを見てみたけれど、それほど自分にとっては面白くなく、やはり準決勝の審査員は冷静にみているのだなあと感じます。

以下は批評も混ぜた感想です。

【1stステージ】

ロングコートダディ「花屋」

派手なセットや小道具、脚本におけるツイストなどなしに、やり取りだけでここまで笑わせることができたのは、堂前の脚本はもちろんのこと、ひとえに兎の声や身振りに依っているところが大きいと思う、この一本目でその身振りのみで爆笑を起こしたというその部分を評価していたので、二本目のコントで文字通りそれらが封印されてしまったところは痛かったように思う。

ダンビラムーチョ「冨安四発太鼓保存会」

一番笑ったのはこのネタかもしれない。笑わせどころのくだらなさもそうだし、大原の演じるキャラクターが、コミカルでありながら高圧的な態度や、伝統にとらわれているという田舎の人間の陰の部分が滲んで見えるのが良かった。点数があまり伸びなかったのが残念。原田フニャオがもう少しビシッと厳し目にツッコんだ方がこのコントの場合は締まったような気がするし、最後は大原の「いいなー!」のところで暗転して終わった方が絶対に良かった気がする(最後の蛇足になっている部分を削って、原田が太鼓を四発以上叩いてしまうことによる、大原のキャラクターの横柄さに対するカタルシスを起こすフリにもう少し時間をかけた方が、よりウケ、審査員の点も上がったかもしれない)。だけどそれが良さでもあるからむずい。

シティホテル3号室「通販番組」

涼太の佇まいや台詞回しが、タイタンの系譜というか、「コント師」なんて言葉すらなかった時代の東京芸人のシティ派のコントにおけるいにしえの身振りって感じがして、それが継承されているということに興奮した。
販売戦略のためといっても、通販番組の生放送であんなにキレるということにあまりリアリティを感じられなかった(通販番組って生放送でも台本を一字一句やってるものだというイメージがあるから)。なので、最後までその点がノイズとして引っかかり続けたのが難点だと思う。

や団「休憩時間」

ロングサイズ伊藤のコント演技ってめちゃくちゃ優れている。僕は芸人が演技力があるという意見には「演技力」つっても色々あるから雑だなあ(芸人のネタにおいて必要となる演技と、映画や舞台で必要となる演技って絶対別だと思っている。テレビドラマや映画に芸人が最近出演しているのは、芸人の演技力がすごいのではなく、逆にドラマや映画がお笑いのネタ化しているからであるのと、元も子もないことを言えば、単に普通に視聴者や観客が集められるほどの知名度があり演技が下手なジャニタレよりは単価が安いからでしかないからだろう)と思うけれど、この人は絶対シリアスな演技をしても成立すると思う。

コットン「おままごと」

コットンがまだラフレクランだった頃にどこかのテレビの賞レースで勝負ネタとしてかけていた、警視庁の中のカツ丼を作る部署のコントを見た時にめちゃくちゃ鼻白らんでしまって、そこからコットンに改名してキングオブコントに初出場するまで、あまり良い印象を持っていなかったんだけど、今回見たコントもその初対面と同じような残念さを感じてしまった。
「他人がやっていることに感情移入していつの間にかのめり込んでしまう」という展開はそれこそキングオブコントだったら(決勝進出はできなかったものの)インポッシブルの「ムテキマン」という傑作などがあり、お笑いに対する見巧者であれば(芸人ならば尚更)、予測はできるはず。その予測を超えてこなかった点はいくら、きょんの演技力でもカバーできないものだとおもう。ひとつのほつれからどんどんと穴が広がっていくように、何で子供(西村)があんな大人びた完成度の高いメロドラマを人形劇で演じているのか、とか、あの空間にBGMがかかること(人形劇で繰り広げられた劇中劇の展開に付随するべき劇伴を、劇を演じる西村とそれを見ているきょん外側でかかっているという構造の問題だと思う)とか、違和感として浮かび上がってくる。さもありなんという気持ちだった。

ニッポンの社長「野球部」

個人的には今までのニッポンの社長の集大成みたいなネタだと感じたので、ウケも伴っていたし、これで点数が出ないというのは結構辛かった。個人的には、コントは、演劇との決定的な差異として、セットや演技に至るまで、偽物であることをあからさまに観客にわからせた上で行うということが挙げられる。このネタには、その偽性を最大限に利用し、その過剰さにおかしみを見出す、メタ的な笑いも含まれている。だから、単に見た目の面白さだけであのような視覚的な暴力的な笑いを用いたわけではないと考える。もちろん飯塚のようにそれを否定するのも考えとして肯定されるべきであるし、だからこそ辻の「次ほんまのバットでやるんで見てもらっていいですか」という返しには痺れた。

cacao「部屋練」

今回大会で披露されたコントの中でも、一番動きそのものに帯びる面白さが強いネタだった、至近距離で豪速球を投げるという動きの面白さを提示してからの、3人で狭い部屋で打撃練習をするという動きを、頭の中で予想するだけで笑みがこぼれてしまった。その動きだけを子供の遊びのように(「速攻」「速攻返し」というのはまんま小学生の遊びで出ている言葉のはずだ)執拗に反復することで快感を得るという点で、ジャルジャルがM-1グランプリで披露した、「ピンポンパンゲーム」、「国名分けっこ」のネタを(こちらは言語の反復という違いがあれども)強く思い出した。大会全体としては松ちゃんのことを思う瞬間はほとんどなかったんだけど松ちゃんがいたらどう評価していただろうと唯一気になったコント。個人的には、浦田スタークが若き日の渡辺あつむ(現:桂三度)を彷彿をさせる見た目で、振る舞いも若さ際立ったところがあって良い。

ファイヤーサンダー「毒舌散歩」

ファイヤーサンダーのネタはとにかく一つのツイストを徹底的かつシステマチックに突き詰めていく展開作りが特徴でもあるし、後々今回の大会結果にもつながったように、弱点にもなり得る部分だと思う。システマチックなネタであるか否かは、「一、二行でネタの徹頭徹尾が面白さを損なわない形で表せるか」という基準だと個人的には思っている。今回のラブレターズの二本目なんて一言二言では言い表せない。それを評価するか否かは、それぞれのお笑い観による。個人的には、最後の能力バトルみたいになる展開を広げていった方がより馬鹿馬鹿しさを感じて好きになったかも。

隣人「チンパンジー 別れ」

チンパンジーが背筋を伸ばして歩く姿が一番笑わせたかったところだし、実際笑ったのだけれど、その部分以外は、それぞれの考えたボケを大喜利的にポンポンと並べたような印象を受ける構成で、その繋ぎ目が甘いように思われて、継続して笑いを引き出す力が弱いように感じた。

ラブレターズ「光」

ずっと準決勝のレポなどでタイトルだけ知っていて内容を知らなかったコントで、今回初めて見ることができて、そしてそれがコントを見続けてごく稀に出会う、魂に響くようなネタだったのにひどく感動してしまった。このコントのいいところは、稀に全然ウケてないところがあるところだ。そこが彼らにしかできない、そのようにしか他に表現する術のない業のようなものを感じて、グッときた。

【最終決戦】

ラブレターズとファイヤーサンダーはまとめて言いたいことがあるので、先に二番手のロングコートダディの感想を書きます。

ロングコートダディ「岩壁に封印されしウィザード」 

飯塚悟志の「テレビコント」という批評が物議を醸したようだけれど、私もそこまでは思わないものの、正直、あそこまで金と手間のかかったセットは、新人賞でやるコントとしての規模を少しはみ出しているような気もしてしまって、鑑賞の際にノイズになったのも確かだ。たらればの話をするのは下品だが、もし、過去の準決勝ネタである「動物園」のコントをやってたら優勝だっただろうなと思う。ロングコートダディはあまりに幅広い種類のネタをやることができるから、その手札からどれを出せば良いのかというような

ラブレターズ「YOUは何しに海岸へ?」、ファイヤーサンダー「野球部と不良」

ファイヤーサンダーの2本目のコントを改めて見ると、それが舞台に対してとても平面的に構成されていることがよくわかった。それはラブレターズのコントが舞台を縦横無尽に動き回っていたから良いとかそういうことではない。

これは私がかねてから考えていることなのだけれど、コントという演芸が他に比べて秀でている先進的な部分であり、かつ他の表現に張り合うことのできる可能性の部分だと思うところは、「広さ」を持っているという点であると思う。「広さ」というのはここで私の考案した概念なのだけれど、M-1での漫才のように最短距離で笑いに到達させることが求められる思想の反対にあるものだと思ってもらえればいい。笑いを取るためにどんな自由な回り道をしてもいいという、それができる空間的な余裕があるということだ。どんな小道具を持ち込んでもいいし、音楽やセットを使ってもいい。ラブレターズが審査員から苦言を呈されたがらも優勝した理由は、そのコントの持つ広さを一番利用していたことにあると思う。それはコントという表現をすごく信じているということの証左であって、審査員もその部分を受けて彼らを優勝させていたのではないかと思う。そんなコントを僕は見たくて、お笑いを、特にコントを、見続けているところがある。

総評

今回の大会終了後に、審査員に苦言を呈している人間が(Yahoo!ニュースに残る程度には)少なくないようだ。推測ではあるが、松本人志がもし今年も審査員として鎮座していたなら、その人々がそのような今回のような声をあげることはないはずだ。その発言や考えていることの内容そのものよりも権威を信用するような狡い奴らだと思う。

そもそも明確にその場で修正点を指摘できるネタが、キングオブコントの決勝に上がるわけはないわけで、繰り返してしまうが、今回の決勝のネタも全部現代におけるコント、ひいてはお笑いという表現の最高峰にあるネタだといっても全く過言ではない(今回点数が詰まりに詰まったのは、決して審査員の実力不足なのではなく、他にそのようなクオリティの高さに対する感嘆が正直に現れたものだと思う)。そのような非の打ち所がない作品をぶつけられた時に、何によって評価するか、換言すればどのようにネタ同士の点数の差異を生み出すかという時に、自らのお笑いに関する哲学や美学をぶつけ返すしかない、そういった最も緊張に満ちた判断に依るしかないのであって、今回の審査員は、なぜその判断を下したのかを濁さずにしっかりと言語化したコメントを残している。その点で審査員は誠実でしかない仕事をしていたと言える。

空気階段が優勝したキングオブコント2021以降、私から「お笑い」へ何かを仮託しようとする気持ちが無くなって久しいが、来年もそのような私を——例えそれが短い享楽だとしても——熱狂させてくれるものが現れくれやしないか、楽しみにしている。

2024年の記憶に残ったコンテンツ

2024年、元日から悲惨な出来事から始まって、その後も世界は心痛み、狂うしか無いような酷い出来事ばかりですが、どうにか生き抜くことができました。その中で共にあったコンテンツを紹介していきます。

『Are you KENZEN? 〜僕らの魔法〜』ロバート秋山(『ゴッドタン 芸人マジ歌選手権』2024年1月3日)

 今年最初に生まれた名曲。今年最後までずっとこの歌を口ずさんでいた。

『Stop Making Sense 4Kレストア ミッドナイトプレビューin SHIBUYA O-EAST』1月20日

軽音サークルのOBの方と後輩の野口桜子女史と鑑賞。立って歓声をあげながら見るという普通の映画とは異なる見方をしたものの、とても楽しかった。David Byrneという人間は、どこか都会なインテリ臭さもあるのだけれど、ねのところはすごい人間的な感じがするのが素敵な人だと思う。

『WWW & WWW X Anniversaries おとぼけビ~バ~ × betcover!!(2024年1月26日)』

去年の暮れにめずらしく渋谷を歩いていると、その時目に入った、どこかのビルに取り付けられているオーロラビジョンにこのライブの情報が偶然映っていた。これに瞬時に運命を感じ、即チケットを取った。

おとぼけビ~バ~から最高。もっとモッシュとかできるのかと思ったら意外とお客さんがみんなおとなしくて、こっちは暴れたくりたいのに動きづらくてガッカリした。
あっこりんりんさんがめちゃくちゃ頭から終わりまでカッコよくて、女性のヒーローってこの人のことなんだろうなと思った。あとギターの人がMCするんだと思った。レッチリみたいに。
続いてbetcover!!。「観た」とか、「体験した」みたいなことなまぬるいものじゃなく、「犯された」みたいなという気分に近い。それほどの官能的で情熱的なライブだった。
メンバー紹介即演奏開始という世界一カッコいい開幕から終わりまでノンストップで突き抜けていく演奏。2歳しか違わない人からどうしてこんなかっこいい声とかっこいいギターの音が出るのか。俺が音楽に興味を持ち始めた頃にはゆらゆら帝国はすでに解散していた。だけど、俺は生きているうちにbetcover!!を見ることができたと生涯自慢し続けられるだろう。

『ズレカツfight』マヂカルラブリー&ランジャタイ(『千鳥のクセスゴ!』)

しょうもないことを幾度となく繰り返す笑いにやっぱり僕は弱いのかもしれない。

『グレイモヤ(2024/02/18)』

お笑いを見る熱中度がどんどんと低くなっていっている僕が唯一見に行く、前後のトークなし、尖ったネタのみが繰り広げられる、これさえ見れば最先端とまではいえないが、今のお笑いのモードが概ね分かるだろうと考えるお笑いライブ。この時のライブは、R-1グランプリの前哨戦としても見応えがあった。
以下記憶に残ったネタ。
エバース「野球肘」
ボケの佐々木さんの「くいてぇー」の間と言い方が絶妙。
かが屋「吉田」
これで今年のキングオブコントに出場できなかったのはいかがなものかと思うくらい面白いネタだった。
永田敬介「松ちゃんとの電話」

あの報道後の松本人志をいじる時の正解があったように思う。単にいじるだけではなく、芸人への道へと進むきっかけとなった松本人志への感情がアンビバレンスに含まれているのが心を打った。

サスペンダーズ「文化祭前夜」

今まで誰も笑いとして扱わなかったものを扱うというのが、そのお笑いの新鮮さにつながると思っているが、その中で一番線等を走っているのはサスペンダーズだと思う。
街裏ぴんく「冨樫義博」
サツマカワRPG「防犯ブザー」

『大正を生き抜いた女』ユースケ(「テレビ千鳥」2024/02/23)

どれだけルッキズムだとかなんだとか言われようと、やっぱり面白くて変な顔というものはあって、自分はそれを見ると笑ってしまう。

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『誇張しすぎた真木よう子』ハリウッドザコシショウ

2024年上半期のエポックメイキングな傑作。今年逝去されたものまねの碩学的存在だったものまね研究会氏が「優れたものまねは真似した人間の本質をも描写する」という名言を残していたのだけれど、ザコシショウはその批評眼を持っている。

『6Pがしたい』ななまがり(「チャンスの時間」慰問ネタグランプリ)

ひさびさに笑いすぎて体がアッツアツに熱を帯びる現象に陥った。

『もりもり寿司の中トロ』

今年食べたものの中でうますぎてびっくりしたものの一つ目。軽音サークルの同期4人とともに金沢市に行った時にまず初めに駅前の高めの回転寿司屋で食べたのだけど、あまりに美味すぎて笑ってしまった。
ちょうどディズニーランド1回行ったのと同じぐらいのエンターテイメント性だった。

『金沢蓄音機館での蓄音機の演奏』

その金沢旅行の目的の一つが、金沢蓄音機館へ行くことだった、古今東西(今はないが)の蓄音機が寄贈され、展示されている博物館で、なんと当時の蓄音機を館長自らが操作してその音を来訪者に聴かせてくれる。そこで我々に披露された、エジソンが発明した世界最古の蓄音機の音が、ピアノの演奏だったが、それが百年以上前の人間が確かに出した音なのだと思うとなんとも言えない気分になった。自分たちが普段聞いている音楽もこのような記録の側面があるのだが、一番現象としてそのような特性が生々しく現れている音を聞いて、それを再確認させられた。

『かりんとうの車』トンツカタンお抹茶(「R-1グランプリ2024」2024/03/09)

「『その男凶暴につき』のテーマ」と並ぶ、今年鼻歌で口ずさんだ曲の上半期ヒット第一位。普通に勝手にフリー音源をの規約違反で配信停止になった顛末も含めて最高。

『初期メンバー』街裏ぴんく(「R-1グランプリ2024」2024/03/09)

私が初めて街裏ぴんくを知ったのは、BSフジの番組の違法アップロードだったかもしれない。初めてみた時からその今までにみたことのない芸に虜になった、そして、これは現代の日本のお笑いにおける最先端だと思いながらも、だからこそこの芸が世間に膾炙するのは難しいのかもしれないということも考え、もし俺が金持ちだったのなら、パトロンになることができるのになと思っていた。しかし、まさか今年のR-1グランプリで優勝をもぎ取るとは。初めてテレビの賞レースで泣きそうになった。

『おじさんになるとおばさんが可愛く見えるの?』かもめんたる(THE SECOND ノックアウトステージ32→16)

コント師の人が漫才をやる時、ある意味漫才師に分類されるであろう芸人がコントをするよりも明確に「漫才であるか否か」という線引きを意識しながらその漫才を作り演じているところを見ると嬉しくなる。かもめんたるはその筆頭で、今や育児番組になってしまった『アンタウォッチマン!』の前身番組として放映されていた、『お笑い二刀流』という番組ではじめて彼らが漫才を披露した時、コント漫才に入らず、会話のみで初め、終わるネタに、その線引きの意識を強く感じて興奮してしまった、それからも彼らは一回限りの余芸としてこれを終わらせることなく、その形態を進化させながら、M-1にラストイヤーまで挑戦し、THE SECONDにも挑戦している。その予選に披露されたネタだったのだが、これまでの徹頭徹尾会話でう大が荒唐無稽に見えるが妙に説得力のある持論を展開し、槙尾がそれに困惑するというスタイル(個人的には、彼らの漫才はう大が槙尾に会話の主導権を与えようとしないという側面があり、コンビの双方に発言が与えられる台本というもののもつ特性を維持したまま演じられる、コント漫才よりも作り物感が強い所謂「しゃべくり漫才」などよりもよっぽど会話そのものように感じる)はそのままで、彼らの漫才の演じ方、コントとは異なる演技の筋肉を十分に発達させたことで、それまでその完成度に伴うことの少なかった観客の熱狂を引き出していて、感慨深かった。

『終王ノブ』(「ランジャタイのがんばれ地上波!」2024/03/26)

2024年に放送されたテレビ番組の中で、最も好き放題にいい意味でやらかしてしまった番組が最終回でとんでもないほどに好き放題にやってしまった。最終回だからといってこんなメチャクチャがテレビに映るのは電波法上許されるのか?
名作であるダイアン津田とのコラボしかり、こう見るとランジャタイ国崎の作る笑いは、一見無作法のようでいてそれまで作られてきたお笑いの文法に倣っている、その修道僧にも似た笑いを生み出すことに対する信仰心というか、敬虔さを強く感じる。

『警察が好き』永野(「さんまのお笑い向上委員会」2024/04/07)

 今年は空前の第二次永野ブームが巻き起こった年と言える。個人的に永野のあの芸は「毒舌」「芯を食っている」と称賛されることが多いが、自分は芸人はどのような時でも何も本当のことを言わない、詭弁を弄する人種でしかない(というかそうじゃないと芸人とは言えないとまで)と思っていて、永野はその究極であると思っている(ある意味今年から姿を消した松ちゃんよりも詭弁の天才と言えるかもしれないそのチート行為的な話術でもって、その意味でちゃん松と入れ替わるかのように彼が芸能界を席巻したのは当然であろうと思っている)から、彼の言葉を真実と捉えるのはすごく危険を孕んでいるとは思いながら(このエンタメとして披露した表現ををガチと捉えられたことによって殺された表現者は、彼の好きなカート・コバーンしかり、松本人志しかり数多い。だからこそ、『しくじり学園放送室』(https://youtu.be/F8Qn_hs7VAA?si=klDPvltwXB_9v2SE)で「俺浮かれてないからね」とその現状をしっかり理解していた永野に安心したのだけれど)ここ数ヶ月の永野の暴れっぷりには楽しませてもらっているから文句は言えない。それでありながら、この再ブレイクを体感する直前から永野を見ていると、彼のネタこそが面白いという感想は拭えないのだ。彼がネタを披露する機会は舞台でもテレビでも多くはなく、3〜4年前の「ネタパレ」などで『関係者席にクワバタオハラを見つけた歌手』『お味噌汁の達人』『餅を喉に詰まらせた新沼謙治』などの傑作を立て続けに発表していたのが記憶に残っているが、その後は僕が舞台に見に行けていないのもあるけれど彼がどんどんと再び駆け上がり再びテレビの中に現れる頻度が増えていくにつれて、それらの傑作ネタを見る機会も減っていった(「永野ショートムービーCHANNEL」という例外はあれど、僕はあのような過剰なほどのエフェクトや編集によって修飾が施されているスタイルがあまり好みではない、やはり自分は舞台の上で生身一つで客に対峙していくスタイルが好きなのだ、ある意味なんでもできる映像表現よりも、制約のある舞台上で披露される方がそこで行われるあまりにも突飛な展開の持つリアリティというか、強度が異なる気がする)。
今こそ、ドキュメンタルに出てもらって、彼の笑いが紛い物ではない唯一無二のものであることを皆に認めさせるザコシショウルートを歩んでほしいものだが、松本人志亡き(もう「亡き」と言ってしまえるくらいには彼の笑いを過去のものとして、整理して扱ってしまえている自分がいる、というか、あまりにも彼が長いあいだ現役でありすぎたという方が正しい。別に彼の笑いは今の芸人たちに流れているのだからいいではないかという気分になっている)今難しいのがもどかしい(別にちゃん松がいなくてもできるような気はするのだけれど、彼自身がいなくても成立するほどまでに強いフォーマットを彼が作ったということもあるのだけれど)。

namarako on X: "永野「『警察が好き!』と言ってジャンプします」 さんまのお笑い向上委員会  https://t.co/fNA0ZwwMde https://t.co/fSaedf0cG9" / X


『坂本慎太郎LIVE2022 @キャバレーニュー白馬 フィルム上映会~同年ツアー人見記念講堂LIVE映像との2本立オールナイト~』

友人の野口桜子女史に誘われて急遽行った。ゆらゆら帝国のベース亀川千代が亡くなって間もないくらいの頃で、聞きに行った。
最後アンコールとして監督の大根仁による挨拶の後流されたのが、ゆらゆら帝国の日比谷野音でのライブ映像だった、それが人から出る音じゃないくらい凄まじくて、でもそれは確かに鳴らされた音で、でもそれがまた鳴ることは永遠に無くて、でも間接的にでもそれに出会えたから…
とにかくいろいろな思いが頭の中をぐるぐる巡った。

『虎に翼』

自分はとにかくドラマという表現形態を見る気がしない。同じ映像なら映画は観れるし、小説なんか読破するのに何ヶ月かかってもそれに付き合っていられるのに、ドラマに対してはそれほどの熱量を持つことができない。それはおそらく、ドラマというものが自分の人生の中で見ている風景の一部になることはあっても、反対にドラマにその風景をガラリと変えられてしまうことがなかったからだろう。そのように思う理由を考えれば、テレビドラマという作品形態では、受け手が作品に対してどれほど熱量を持っているかを、視聴率などの単純明快な指標で計測し、本来ならば、先んじて存在する表現したい事柄を伝えるために作品を作るところを、その計測結果をもとに、より良い結果を残すためにテーマやシナリオなどをあらかじめ設定して作品を作るというような、受け手の心情を打算的に見積もるような創作の姿勢への拒否感がある。しかし、自分の好きな役者である伊藤沙莉が主演するということで、これを見逃すようだったらもう一生朝ドラを見ることなんてないだろうなと思い、なんとかNHKプラスを使って観続けた。そうして離脱することなく、半年間このドラマを見終えたのである。
主役の伊藤沙莉よりも、その周りにいる実力十分な役者が個性的なキャラクターや抜群なスキルで持って演じていることで目立っている(とくに、特徴的な喋り口調を持っているのに、全く違和感をもたせず、確かに生きている人間としてそのキャラクターを長い物語の最終盤まで成立させた森田望智はすごかった)のだけど、伊藤沙莉が、全く食われることなくそれを受け、吸収していくような芝居をしていてそういった技能を持つ稀有な役者だなあと思う。
とにかく脚本が素晴らしく、女性の社会進出、家族の問題、現代にまで深く長く残っている課題を落とし込み、それでいて説教くさくならない。そして何よりも痺れたのは、主人公が出向先の新潟で出会う美佐江なる女生徒とのシークエンスだ。自分が手を下すことなく周りの人間を次々に犯罪に走らせる少女の美佐江に、主人公の寅子が巻き込まれる展開は、黒沢清の『CURE』さえ連想させる不気味なサイコホラーになっていて、それでいて娘との関係の再建を目指す家庭のドラマを共存させるというとんでもない手腕に、舌を巻いた。そして一旦は未消化な形で退場した美佐江という存在が、この長い物語の最後の問いとして再登場するという、見事としか言いようが無い作劇に思わず嘆息が漏れてしまった。

『2024 4団体統一世界スーパーバンタム級タイトルマッチ 井上尚弥 vs ルイス・ネリ』

スポーツの試合を見て、面白すぎて涙が出たのは初めてだった。
最後の相手の攻撃を全部受けて、こんなもんかと首を振りながらニヤリとした後に左フックを当て、怒涛のKOまでのながれは正に漫画を見ているようだ、いや、漫画よりすごいものが今起きてるんだと思った。エンタメとしては圧倒的に一位。

『cero LIQUIDROOM 20th ANNIVERSARY』2024/07/18

ライブが始まるまでは個人的な事情でメンタルがどん底にまで落ちて、開演する直前まで目が本当に涙が出てきたくらいだったのだけれど、始まったら最初から演奏のパワーが凄まじく一気にその悲しみは吹っ飛ばされた。まさにベスト的な選曲が最高潮の演奏で奏でられる。ポップミュージックが人に与えるものということをより再確認させられた。

『カジノで1億勝負する粗品』粗品 Official Channel 

二時間弱という強気な再生時間に怖気付いて、就寝前のBGMとして再生したが、その怒涛の展開に一秒たりとも目が離せなかった。
奇しくも今年 TBSの編成部によって暗殺された『ジョンソン』の最初の企画も、カジノで一発勝負するという企画で、何重にも妥協や安直さに基づいた保険が張り巡らされて、それでいてそのような打算も全く成功につながらないという、最悪の結果だった。
企画性、行動力、(撮れ高をしっかりモノにする)運、それら全てを魅せるエンターテインメント力、改めてそれを高いレベルで持っている粗品はエグすぎだし、そりゃみんなテレビなんか見なくなるのも宜なるかなと思ってしまった。

『FNS27時間テレビ 日本一たのしい学園祭!』

 人間が何かに熱中しているところが映されていて、その熱意が観ているこっちの方にも移って、画面に釘付けになるというのが、テレビというメディア、とりわけバラエティ番組において理想的な見られ方だと思う。『新しいカギ』はそのような王道を突き詰めている番組だなと思う。キンタローのジャック・ニコルソン完コピなども名場面だったが、特に感動したのはフィナーレの「カギダンススタジアム」で、本当に学生たちが青春という限られた時間の中で、一つの目標に向けて一生懸命に生きる姿が、自分がそんなふうに生きたことがないゆえに、尊くて、本当になんの衒いもなく感動してしまった。ハナコ秋山と三重高校のダンスは、ナインティナイン岡村のオファーシリーズ以来に、芸人が真面目にかつ真剣に何かをやるということで感動した(最近はお笑い芸人がお笑いを真面目にやるということがエンタメとなり、かつ食傷気味になってきてからも久しいが、芸人が自分のできる芸事の範囲外の芸をやるということに対して未だに感動するのは、芸人が持つそのもののポテンシャルを見せていくからだと思う)。

『殺人狂時代』岡本喜八

今年見た映画の中でもとりわけ印象深かった作品。昔の映画なのに、こんなにめちゃくちゃで、それでいて面白い映画があるのか!とびっくりした。仲代達矢が変人の演技をするのにもギャップも相まって面白かった。とりわけ最後のスペイン式決闘のシーンは圧巻。岡本喜八『殺人狂時代』を見た! - にゃんこのいけにえ

『小沢健二「LIFE再現ライブ」』2024年8月31日

小沢健二の2ndアルバム『LIFE』が発売された1994年8月31日に僕は生まれていない。だけど、小沢健二という人間が作ったこの魔力溢れる『LIFE』というアルバムを聴いてきた人たちが、この武道館に集まるまでの時間を会場にいながらずっと考えていた。

非常にDIY味が溢れるライブで、スマホの画面の灯でサイリウムを再現したり、親子席で来た子供達にコーラスをさせようとしたり(あんまりうまくいってなかったけど)、派手な演出がなくても面白い試みをたくさんしていて、何より小沢健二の歌が全然衰えていないというか、現在進行形のアーティストだなと認めざるを得なかった。

『祝!内村光良還暦祭り 内村プロデュース復活SP!!』(2024/09/28)

歳をとって、あちこちに衰えを感じながらも必死に頑張って生きるということも悪くないかもしれないなと思った。特に有吉が始終嬉しそうにはしゃいでいるのがめちゃエモかった。

『Cloud クラウド』黒沢清

蓮實重彦風にいうなら、「滅法面白い」映画。日本の素晴らしい役者たちが黒沢清の撮る画面に写り続ける至福。特に窪田正孝ってこんなにいい演技する俳優だったのか!という衝撃が強い。どうしたらあんなヤバい眼ができるのかが不思議だ。

今作を見ながら、黒沢清という監督は娯楽映画というものが持つ古典的な文法に忠実であろうとしているなあと思った。まるでそうしろと決まっているかのように、女が男の前で脚にボディークリームを塗る欲情的な場面が出てくるし、最後まで虚無の極みのような生き方をしている男が、恋人を喪った瞬間に慟哭する。

『KILLAH KUTS』

各話の初めに映される視聴者への断り書きが、なんだか格調高い小説のエピグラフのような、自分の作る表現に対する矜持を感じさせるもののように見えた。どのVTRも笑いを誘うことよりも、社会実験のようなものに見える、ファニーよりはインタレスティング寄りの面白さになっていたのが興味深いと思う(後日YouTube上で無料公開してくれたラランドニシダの昏睡ゴシップには爆笑してしまったが)。

『ZAZEN BOYS MATSURI SESSION AT BUDOKAN』

いつかいつか生でみたいと思っていたZAZEN BOYSのライブ。武道館という特別な場所で、何も変わらずどっしりとした、しかし近づくと切り捨てられるような鋭利さを持った演奏が3時間も続いて、圧倒されてしまった。

『HIKARU UTADA SCIENCE FICTION TOUR 2024』

僕にとって宇多田ヒカルは、他のミュージシャンとはちょっと格が違うというか、あまりアーティストに対してこのような言葉遣いは控えたいものだけれど、神様のような、人間の住む世界とは少し別の次元にいる存在として捉えている。だけれど今回のライブ映像を見て、彼女の代表曲が次から次へと歌われるのを聴きながら、それらはぜんぶ、徹頭徹尾、市井の人々に対しての真摯な芸術だったのだなということに感動した。

『 ニューヨーク 漫才 「ラブソング」』ラパルフェ(M-1グランプリ2024準々決勝)

お笑いというのはあくまで表現であるので、それに対して「これは反則だ」「禁じ手だからやるべきではない」というような自主規制的な言説を言ってのけてしまえる人間の精神には鼻白んでしまう。しかしこれは反則でしかなかった。真面目な話をすると、このネタは、お笑いイベント「グレイモヤ」などであるような、お笑いという文化圏の内部を笑いの対象にするような(内輪ネタなどと揶揄するような)潮流の流れにあるネタで、それでいてそれをM-1グランプリという場でわかりやすくかつ最大限に利用しているネタだと思う。それでいて、M-1以外の場ではあまりこの面白さが再現不可能であるところからして、反則どころか徹頭徹尾M-1グランプリのために作られた漫才だと言える

『名探偵津田 第3話 怪盗vs名探偵~狙われた白鳥の歌~』

10年目を迎えてもなお、「電気イスゲーム」「楽屋泥棒目撃ドッキリ」「清春の新曲、歌詞を全て書き起こせるまで脱出できない生活」などの衰えを見せないコンテンツを作り続ける水ダウが満を時して届けたビッグコンテンツは、その始まりからして事前予告なしという我々の不意を用意周到に突くものだったのに感服し、至極リアルタイムでその唐突に起きた事件を目撃することができてよかったとの思いを感じさせるものだった。

その後の「長袖をください」で笑い死にしかけたけれど、何よりも興味深かったのは、前作に続き、物語と現実の「1の世界と2の世界」という概念が、結構メタ的な視点を持ったフィクションにおける物語世界と現実世界との交わり方を説明する上で割と今までなかったような概念だなあと思った。ミステリというものは作劇や執筆の面において厳格とも言えるルールが存在するジャンルだと思うのだが、それがバラエティのドッキリと出会うと、このような化学反応が起きるのだなと思った。

コミックマーケット105(2024/12/30)

自分が参加している「或る歴史と或る耳と」という、著名な音楽誌の名盤ランキングにランクインしたアルバムを複数のレビュアーが聞いて合評するという企画の日本編をまとめたZINEを作ったので、それを販売する先輩に会いに行った。

初めて行ってみたが、まさに魔境であった。自分たちが巻いたリストバンドがついた腕をまっすぐ掲げながら入場していく様も面白かったし、人の波に揉まれながら歩いていくと、周りを乳房や生殖器を放り出して欲情的な顔をしている少女たちのイラストが描かれた大きな幟があちこちに立てられている魔境に迷い込んでいた。

まさにカルチャーを煮詰めたような場所で、ここが日本のカルチャーの中心地なのかと思うと、なんとも奇妙な気持ちになった。

 

12月の暮れ、佐々木敦さんの忘年会に参加する。そこで発表された来年以降の佐々木さんが行っていく予定の仕事の量に慄きながら、QRコードを認識して注文するように言われながら電波が圏外など、おしぼりが所々でサービスがなっていない店で二次会をして、書評家の豊崎さんとじっくり話す。最後は絶対に戦争をしちゃいけないと言っていた。泣きそうになった。帰ろうとすると、豊崎さんから「お土産!」と呼び止められ、豊崎さんがしきりに美味しいと言ってた居酒屋のメニューを紅生姜鳥天をもらって帰る。その時に佐々木さんに自分たちの作った同人誌を渡すことができた、お邪魔にならないか心配だったが、喜んで受け取ってもらえた。紅白歌合戦を見ながら、もらった鳥天をトッピングに両親から送られてきた年越しそばを食べる。美味かった。

2025年も人々の救いになる素晴らしいコンテンツが生まれますように。

勝手にライナーノーツ#1 ピチカート・ファイヴ『プレイボーイ・プレイガール』

 ピチカート・ファイヴ、ひいては小西康陽という人間がつくる音楽には一貫した詩学がある。どのような表現者にも、自分なりに編み出した創作術を持っているはずだが、小西康陽の敬虔さを感じる程厳格にそれを守っている音楽家は他にいないかもしれない。では、その詩学とは何か?恐れずに明言するならば、それは、邂逅と別離、もっと易しくいえば、全ては一つになれずバラバラであるのに、それらが出会っていくという不思議さ、そしてまた別れるということの悲しみということである。このようなテーマは歌詞、そして音によって繰り返し語られている。

 

愛しあうふたりのささやく言葉や

街のどこか誰かがくちづさむ歌とか

そんなすべてひとつに重なり生まれる

これは恋人たちのためのシンフォニー

そしてきょうも誰かが出逢って別れるもしもいつかあなたともう一度逢えたら

きっとうまくあなたに打ち明けて言うはず

聴こえる?恋人たちのためのシンフォニー

ー『大都会交響楽』ー

 

 小西康陽の楽曲によく使われている文法として、サンプリングが挙げられる。洋楽のオマージュに始まり、唐突なSEやナレーションの挿入は今作でも頻りに行われている(とりわけ印象深いのは、日本の名優、細川俊之の声がアルバムの始まりと終わりを親切丁寧に告げてくれる瞬間だろう。)が、もっと深く耳をすませば、その方法論が、演奏全てに徹底されていることに気がつくはずだ。それぞれの楽器が同じ空間で演奏されることはなく、それぞれ個別に録音されているということが露骨に分かるように配置され、それらの音が一つのポップソングとして何ら違和感なく同居している。バラバラに分離した音が同期されているというアンビバレンスが、今作の全ての楽曲に通底している。このようなアンビバレンスは歌詞にも顕れている。ピチカート・ファイヴの楽曲を聴いた日本語話者なら誰でも、その明るいメロディーに乗せて、深い哀しみに溢れた歌詞が(半ばやけっぱちのように)歌われていることを理解できるだろうが、それと同時に、それが思わず聞き過ごしそうになるほど自然に歌われていることもわかるはずだ。

 

死ぬ前にたった一度だけでいい 思いきり笑ってみたい

ー『陽のあたる大通り』ー

 

といったような、心にあらわれる暗さの極みのようなことばが、至極明るいメロディにのって歌われる。ここにも前述したようなアンビバレンスを鑑みることができる。このような厭世的にも思われるエモーショナルは、しばしば彼のパーソナルな部分から由来していることもある。たとえば、1997年に発表された「メッセージ・ソング」は、自身の離婚を経て、離れ離れになってしまった自分の子供に対する気持ちが込められている。この曲の歌詞に書かれているのは別れに対する哀しみや絶望を経験した人間の持つ、世界に対する祈りにも似た無垢なる感情である。

 

冬のある日

言葉のない手紙がきみに届く

忘れないで

ぼくはきみを

ほんとうに愛している

そしていつか

きみとぼくはきっとかならず逢える

ー『メッセージ・ソング』ー

 

 本作『プレイボーイ・プレイガール』の歌詞に出てくるのはそのような、別れた後か、人生における幸福な時期を過ぎてしまった(と感じている)人間ばかりだ。とにかくハッピーな気持ちになっている人がどこにもいない。けれども祝祭のように幸福感に包まれた明るい音楽に包まれながらその人々が発する言葉はほんとうにとても美しくて、僕はそれを聴くたびに涙が出そうになってしまう。

 このアルバムの中でとりわけ素晴らしい1曲をあげるとすれば「華麗なる招待」を私はあげたい。ここには前述したような小西康陽の詩学が詰まっている。例えば、この歌詞の主人公は、離れた場所にいる「きみ」に長距離電話で話しながら、

 

もしもゆうべ観た夢が本当になるのならばぼくはたぶんもうすぐ死ぬのかもね

(中略)

人は生まれてそしてきっと誰かを愛してそしていつか死んでいく 

とてもあっけない

飛行機の中で見た短い映画みたいに

ー『華麗なる招待』ー

 

といった諦念の果てのような言葉を繰り返す。しかし最後には

 

そんなに悪くない

飛行機の中で見た短い映画みたいに

 

 

といった同じ言葉に違う意味を持たせるという手法で、希望のようなものを見出し、この曲は終わるのだ。

 ピチカート・ファイヴの音楽は、この世の全ての聖なる音楽と同じように、哀しみを持たざるを得ない生き物である我々に対するカノンであり、エレジーであり、そしてレクイエムだ。彼らの音楽に耳を傾ける者や、その音に気が付かずに通り過ぎる者、その音を聴かずに一生を終えるであろう者たちのそばで密かに、繰り返し、鳴り響き続けている。

太田光という猿

国営放送の特番で、日本の高名な大学で教授たちと「教養」というテーマでトークをしている。その道の権威であろう教授たちに向かって全く科学的でない論理的飛躍が甚だしいことを言う。教授たちがそんな彼の言葉を一笑にふすと、それに対して顔を真っ赤にしながら反論する。いつしか教授たちも彼の言葉に反応して大激論を交わし合う。
この姿を見て私は、やはり太田光という人間の異様さを見たような気がした。彼は、他人から買ったり受け取らずに自分で材料を見つけて作った刀で、どれだけ戦えるのか実際に試している。と思った。そしてその思いと同時に僕は、「太田光こそ、芸人そのものなのだ。芸人の中の芸人であるのだな」と思ったのだった。
スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」の最序盤に、猿が地面に落ちていた動物の骨を使って同種族の猿を殺し、その瞬間、動物から離れ人間に近づいたことを明確に示すシーンがある。それから人間は進化し、科学を駆使して手に持てる武器を一つの国さえも一瞬で壊滅するほどの核兵器へと変えるほどに進化した。
その、後に人間になる猿たちはなぜ、自分が持った骨を武器として使ったのだろうか?別に骨に限らず、どうやって火を起こすかとか、目の前にあるもの全てに対して何か試行錯誤をしながら知恵を得る。なんでそんなことをしたのだろう?
多分、別に人間が特別だったからではないはずだ。僕はチーターが速く走ってしまうように、南米かどこかにいるヒヒの睾丸が青いように、そういう動物だったのだ。そうしていたから、そうすることでしか人間は人間として生き得なくなった。だからその実験の結果がどのように後世に影響しようが、関係ない。ただするから、人間のご先祖様はそれをしていたんじゃないのかと思う。
時はぐっとめちゃくちゃ進んで、毛も抜けて人間らしい姿に人間がなってからだいぶ経ったあと、いつからかその習性を自覚しながら、当然のものとして運用する行為をする人々が現れはじめた。多くの人間は、はじめその者たちを珍奇な目で見た。彼らを害敵として駆除するように処刑した権力者もいた。ある時だんだんと、この行為が、人類(を反映させるシステム)にとって(その裏では権力者が富や力を得るための手段として)有用であると人々が気がつきはじめた。その者たちがする行動はいつしか、科学と言う名がつけられた。この有用性を名目に科学という行為を行う人間の人口、行われる実験の規模、行為が行われるスピードはだんだんと増していく。行為の結果と、そこから導き出される事柄たち増え続け、まとめられ、連なりを持たせられてやがてこの世界の真実として強靭化していく。そして、もはや科学は行為よりも、その行為を行うための理性という能力を持っているらしい人間を神と同等の存在と崇める、従来の宗教よりも感染しやすく影響力の強い思想となり、やがて人類が持つ無意識と化した。そして原爆。そして水爆、ができた。この習性を意識的な行為に転化した彼ら、初期の(科学者と呼ばれなかった、狂人と言われていたであろう)科学者たちはいざしれず、今現在の科学(という無意識)に則って動く人間の多くに共通して言えるのは、「私は私である」「私は人間である」「人間とは人間である」という考えを確固たる原則としている、自分や自分がいる場所に違和感を持たず、当然なものとして生きている。積み重ねられた土台を元来の地面と思うようになった。その姿は傲慢でさえみえる。映画ではその傲慢になった人間たちの末路を核兵器が積まれた人工衛星に囲まれる地球という静かな悲劇として見せる。
太田光はこの人間の傲慢さに立ち向かってる人間なのだと思う。太田光は科学や人間という簡単にはグラつかない土台、安全地帯に居座らない。それらにいつも蹴りつけるような疑問や意地悪を投げかけ、破壊し、それらが本当に正しいつもりかと我々に問いかける。そしてその行動の根源には、原始の人間が行った行為にあった、人間が人間という生き物であるために必要であったゼロからの試行錯誤が、本当の意味での人間らしさが、あるのではないかと思う。
太田光は人間が人間として驕り高ぶる、もっとずっと前にいたのであろう、喚きながら人間らしくあるための試行錯誤を繰り返していた猿人そのものだ。我々現代人間にはその姿は随分喧しく見える。
「芸人人語」はその太田光の芸人としての思想が最も濃厚に表れている一冊である、と言える。
多数の児童を殺し、自らの命も絶った男について。
天皇について。
教師同士で行われたいじめについて。
コロナについて。
何が正しいのか。そもそも正しいということ、正しいと思ってる俺ってなんなんだ?何度も太田光は反芻し、確かめる。答えなんか出すそぶりも見せない。簡単に誰かに作らされた考えを正しいと断定する人間たちを、その人間たちによって正しいとされだことで構成される社会を、睨み付ける。それは人類が作り出した、原初的にして、最後に残されるであろう「疑う」という武器を手に持ちながら。
(自分が決定した)唯一の真実に向かって、盲信と言われるほどに突き進む人間も魅力的かもしれない。しかしそれと同じぐらいに、その唯一に安住せず、あちこちを流浪する人間も同じくらいにに魅力的だ。そして私は後者のような人間こそ芸人と呼ばれるにふさわしい人間なのではないか。と思う。芸人はそもそもその場を支配している決まりや約束事などを根底から破壊するアナキストのような超危険な人間であるはずだと私は考える。太田光は少年の頃見ていたブラウン管に映るビートたけしが言った言葉に衝撃を受けたらしい。
それ以前は青春ドラマをマジで見て、感動してたんですね。ところがたけしさんが出てきて。『あの夕陽に向かってダッシュだ……ってどこまで行くんだ!?』っていうネタをやって、ものすごく衝撃的だった。あっ、奇麗事なんだコレって。奇麗事よりも本音を言う方がぜったいに面白いんだっていうのが生まれたんです。
みんなにとって都合のいい欺瞞を全てぶっ壊す。そしてまっさら、ゼロにしてしまった世界の残骸を、見つめ、考える。それを行うものは、おかしい、変だと笑われ、蔑まれ、嫌われ者になり続けることを使命として生きている。その姿に、私は人間という生物の原始の姿が浮かんで見える。荒野に立ち上がり佇む猿の姿が。
この本を読んでいると、彼を日和見主義者だとか、ポピュリストなんじゃないかと言いたくなるところは多々ある。ん?とか、人が良すぎるんじゃないのか、そんなに甘くはないよと思い、反論したくなる瞬間は何個もある。しかしそう思ったとき、我々は彼の術中にハマっている、彼は縛られ続ける我々を揶揄い、怒らせ、対話をさせようとしているのだから。人になり踏ん反り返ってる奴らはこの世にごまんといる。いやほとんどがそうだ。人間であることに安心している奴らばかりだ。そんな者たちが吐く言葉や持っている思想なんかにはなんの価値もない。彼はそれを叩き壊そうとする。
我々は我々に棒で殴りかかろうとする(今はもう絶滅しかけている)猿たちに逃げることなく一対一で立ち向かい、じっと見つめ、そして彼らが叫び続けるやかましい鳴き声を耳に刻み込まなければならない。太田光はそんな人間未満になり続けようとしている存在だろう。太田光は猿である。偉大なる。